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大岡山・千束地区について

まちのあらまし

まちのあらまし

大岡山・千束地区にようこそ! まちのあらましをご紹介します

地形と地名の由来

 大岡山・千束地区は、多摩地区から続く武蔵野台地の最南端にあります。台地部の最も高い所は標高40m、低くは洗足池の湖面20mまで。起伏の多い土地です。断崖から湧き出す地下水が窪地を流れて谷底に集まり、大きな溜池(洗足池・旧千束池)を造っています。

 千束の地名は、大宝律令(701年)による税に由来します。田畑を潤す水源のある地に、稲千束分を免税したと言われる全国版の地名です。浅草にもあった千束池は、江戸の開発で水田になったり、埋め立てた所は遊郭・吉原になったりしましたが、千束の名を町名に残しました。

 当地も鎌倉時代に日蓮聖人が足を洗った故事から、大正から昭和にかけて千束を洗足とする表記が出始めました。しかし町名は変わらず、北千束・南千束と古名を大切にしてきました。目黒区ある洗足は、池からは大分離れていますが、大正期に田園都市株式会社が一帯を「洗足住宅」として売り出した名残りです。

 また大岡山は、今日想像する「山」ではありません。低地から見ると、山塊のように見える台地を昔は山・岡・丘・丸・円・台などと呼びました。大岡山の名が、吞川に向かって低くなる目黒区側にあるのはそのためです。大岡「山」と目黒区側の「山のつけ根」は、鉄飛坂、うぐいす坂などの急坂で結ばれています。ダイダラボッチ伝承がある大岡山・千束地区は、変化にとんだ地形のぶらぶら歩きも楽しいまちです。

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ダイダラボッチ 日本各地に伝わる巨人伝説。山や湖沼を創ったという伝承が多く、国造りの神に対する巨人信仰から生まれたと考えられています。ダイダラボッチの大きな右足跡が大岡山1丁目のすり鉢山、左が北千束2丁目の貉窪、おしっこが洗足池で、ついた杖跡が小池との伝。(収録:大田区史・民族)

絵は、野村昇司氏(児童文学者)が赤松小学校々長時代に児童にわかりやすく描いたダイダラボッチの一コマです。

大正8年頃の絵図。洗足池に注ぐ4方向からの流れと水量がよくわかります。電車はまだなかったのですが、位置関係が分かるように後に書き入れたものです(岸田勇氏筆)

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中根小路(緑ヶ丘1丁目)からの写真。左側のこんもりした場所が大岡山。中央遠くに東工大本館。昭和10年頃か?

(『目黒区の100年』郷土出版社)

中原街道から見た洗足池。大正期でものどかな農村でした(綱島金蔵筆)

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①-6 10年後、洗足池は憧れの場所.jpg

電車が走るようになると洗足池は人気のレジャースポットに。
小泉癸巳男作 昭和12年(1937)

『昭和大東京百図絵版画完制版』

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活気のある大岡北口商店街

大正期に転入した居住者が多いしっとりしたエリア

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地域の基幹病院・東急病院は駅の真上に建つ

2路線4系統の電車が走る

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太鼓判の暮らしやすさ

●交通

 大岡山駅は急行が止まり、東急目黒線、東急大井町線が交差。目黒線は三田線・南北線・多摩川線とつながり、大井町線は田園都市線と連絡してどこに行くにも便利です。駅前地下に大型駐輪場があります。

●医療

 地域の基幹病院・東急病院は駅の上。駅上病院は全国でここだけです。地域の救急医療に対応し、安心です。

●安心

 地盤は固く標高もあり、地盤による地震や風水被害の心配はほとんどありません。

●生活

 2つのスーパーマーケットの競合で物価が比較的抑えられ、商店街も健在。日常の買物が近場で足ります。

●教育

 区立の小学校が3校、区立の中学校が2校、国立大学があり、教育環境が整っています。

●環境

 洗足池周辺は「景観形成重点地区」、大岡山駅周辺は「文教地区」に指定されています。商店街を除く多くは第一種低層住居専用地域。地域一体となった景観づくりが奨められています。​

高級感と庶民性が融和

 明治期までは農家60軒ほどの寒村でしたが、大正12年(1923年)頃から電鉄事業の発展と共に洗足池周辺に宅地分譲が盛んになって、政財界の有力者や著名人の屋敷や別邸が建ち並びました。明治24年(1891年)に別邸「洗足軒」を構えた勝海舟は先駆者とも言えます。現在も南千束1、2丁目付近は緑の多い高級感のある街並みです。一方大岡山駅を中心に戦後の焼け野原を経て発展した地区は、商店街・映画館や大衆娯楽店ができて活力や庶民性を宿しました。人々が行き交う「どこかほっとする懐かしさ」の空気感があります。

見どころ

見どころ

​大岡山・千束地区の見どころを写真と共に紹介します

洗足池公園

1洗足池公園

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洗足池公園 

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大田区立総合公園。面積約77,000㎡、池の面積約41,000㎡、池の一周は約1.2㎞、徒歩で20分ほど。かって「千束の大池」と呼ばれた広い池と1000本を優に超える多種多様な樹木があり、眺めのよい散歩公園として近隣の人気を集める。池ではボート乗りが楽しめ、記念館、図書館、児童館、グラウンド、子どもひろば、遊具や休息所が整う。平成16年(2004)には池西側に土地を取得してシダレザクラを植栽した。平成31年(2019)、東京都名勝指定を受け、バリアフリー化やサイン板などの整備が進む。区の景観形成重点地区。環境保全、水質浄化を図って「ギンヤンマが飛ぶ」公園を目指す。

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公益社団法人洗足風致協会

昭和7年、当地が新東京市に編入され大森区となった際、所有者不明のままだった洗足池と小池の保全を目的に地元有志が社団法人風致協会を設立して両池を風致協会の所有とした。区立公園となった現在は大半が区に帰属するが、なお中原街道に面した約4千㎡を保有し、ボート場、テラス、多目的室などを持つ。休憩室からは池が一望でき、洗足池公園に関する情報発信基地ともなっている。かつて東京市が緑地保全のために薦めた「風致協会」は、明治神宮を筆頭に27か所もあったが、今日継続して残るのは洗足だけ。公益社団法人としてその存在は大きく、公園維持管理に地元の意向を代表し区との協働で現在の景観を創っている。

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勝海舟記念館周辺

2勝海舟記念館周辺

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勝海舟記念館

大田区が令和元年(2019)、旧清明文庫(国登録有形文化財)をリニューアルし、勝海舟の資料保全と歴史を伝える記念館として開館。「ネオ・ゴシック」の特徴がある建物も見どころ。海舟は、晩年に当地に洗足軒と命名した別荘を構えた。

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勝海舟夫妻墓所.JPG

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勝海舟夫妻墓所

海舟は生前から墓所に「富士山の見える所」を指定した。一方妻たみは「小鹿(長男)のそばがいい」と青山墓地に眠ったが、戦後に遺族の意向で移設。今は同じ形の2墓が仲良く並び、墓前には花が絶えない。

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南洲留魂詩碑

西郷隆盛(南洲)3回忌 (この時点、西郷は朝敵)に、海舟が私費で南葛飾郡木下川に極秘裏に建立した石碑。碑には西郷が流罪で流された沖永良部島で詠んだ七言律詩が、裏面には海舟の西郷への深い想いが刻まれている。

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南洲海舟両雄詠嘆之詩碑

昭和12年(1937)、有志数名で建立。碑文は「江戸城無血開城を談笑のうちにまとめ、江戸100万人の命を守った両雄の偉業を讃えている。詩文と書は、海舟を師と仰ぐ門下生・徳富蘇峰。

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​水盤

海舟が没した明治32年(1899)6月に奉納された。背面に刻まれた50余名の奉納者には、加納治五郎、榎本武揚ら各界の著名人の名が連なり、海舟が多彩な人脈の中で活躍、慕われた姿が忍ばれる。

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湖畔(洗足池周遊路)

3湖畔
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周遊路

昭和8年(1933)、東京府は池の周遊路の築造を開始。昭和10年、湖の西側を宅地分譲した荏原土地㈱も逍遥用地を寄贈するなどして昭和11年(1936)に完成した(それ以前は、池をぐるりと回る路はなかった)。

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中原街道改修記念碑

古くから交通の要路だった中原街道。この辺りは「急坂相前後シテ中間に起伏シ峻屹嶮難往来の苦困名状スベカラズ」の土地だった。村々の村長が発起人となり大正12年(1923)道路拡幅の大工事が完了した。

※現在の道幅は昭和40年(1965)の再改修によるもの

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入水路

かつて4方向からの流れが注いだ洗足池。現在も清水窪湧水からの水路に雨水も集め、平均300トン/日の天水だけで水量を保っている。桜山の西側裾をゆるやかに流れる水路には多様な生物が見られる。

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桜山

ソメイヨシノを中心に約100本の桜がある。昭和2年(1927)地主の諸明氏が公共のために開放、昭和34年、東京都が買収した。明治42年(1909)、赤松小学校が現在地に移転した際に植樹した桜は樹齢110余年になる。

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松山

もとは桜山と一体の丘陵斜面地。昭和2年、荏原土地㈱が公共のために開放し、昭和34年東京都が買収した。クロマツが林立する。

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弁天島

昭和9年(1934)、洗足池の一部を埋め立て造島。社殿に祀られた厳島弁財天は、洗足池最大の水源・清水窪湧水の弁財天に呼応する水の守り神。埋立用土は、池月駅(現北千束駅)と道路の立体交差工事、松山・桜山間の切通し路建設残土。2016年まで島の東南端に茶店があった。

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水生公園

ホタルの自生を願うビオトープ、たんぼ、池を渡る八ツ橋や水辺のウッドデッキ路などからなる。季節ごとに主役が交代する自然が楽しい。水鳥が身近に見られるのでバードウォチャーにも人気のスポット。

千束八幡神社

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千束八幡神社

貞観2年(860年)、宇佐神宮(4万社ある神社の総本山・大分)から分霊、この地の鎮守としたことが創建の由来とされる。ご神体は洗足池。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝が、伊豆から安房を経て鎌倉に向かう途中、ここに陣を構え軍勢を整えたと伝えられることから「旗揚げ八幡」とも呼ばれる。天保8年(1837)奉献の狛犬も見どころ。

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池月像(境内)

名馬・池月と磨墨の話は『平家物語』の一節「宇治川の戦い」にあり、琵琶法師によって広く伝わっている。かつて馬込村の飛び地だった当地も、馬込村に伝わる磨墨塚に呼応して平成9年(1997)池月像を建立。伝承を残した。

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池月橋

平成7年(1995)に架けられた三連太鼓橋。毎年5月に行われる「春宵の響」の舞台となって横笛の音が湖面を渡り、日本伝統芸能を伝える新たな歴史を刻んでいる。

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東京八名勝記念碑(境内)

昭和7年(1932)東京市制施行を記念して、新たに東京市に加わった20区域から報知新聞が読者投票による8名勝を募集。洗足池は51万票余りを得て7位で選出された。地元は快挙に沸き、提灯行列などで祝した。

4千束八幡神社

星頂山妙福寺

5星頂山妙福寺

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星頂山妙福寺

寺門をくぐると鬱蒼とした竹林が結界に誘う。寺領は鎌倉時代にさかのぼり、日蓮聖人が生前に座った腰掛の松(現袈裟懸松)を護る祠「護松庵」に始まる。以後500余年、霊場として信仰を集めたり廃れたり再興されたりしたが、嘉永5年(1852年)、日蓮宗の大寺・妙法寺(杉並区堀之内)に寄贈された。以後、妙法寺住職が隠居所「御松庵」として定住したが、昭和2年、関東大震災で被災した同寺の末寺・妙福寺を合祀し、千束村に初めて寺社ができた。毎年4月8日、お釈迦様の降誕祭には甘茶がふるまわれ、7月の灯篭流しは有料でだれでも参加できる。

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本堂(祖師堂)

大田区有形文化財(2013年指定)。天保4年(1833)に七面大明神堂として再建された。張出し部分は昭和年代の増築だが、組み物や彫り物、切妻瓦葺屋根中央の天邪鬼など、いずれも江戸後期の様式を伝えている。

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七面大明神

祖師堂があったもとの場所に社を建造、記憶を残している。

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袈裟懸松

弘安5年(1282年)、日蓮聖人は湯治のために身延山を下って常陸国に向かう途次、信仰篤い信者・池上宗仲の館(現池上本門寺)に立ち寄る。その直前、千束池畔に休み、袈裟を掛けたと伝わる松。500年以上も後の江戸時代後期、見事に育った松は浮世絵などにも描かれその優美な姿を伝える。現存は3代目という。

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馬頭観音供養塔

天保11年(1840)、馬込千束村の馬医や馬の飼い主が、馬の健康と死後の馬の冥福を祈って建て、道しるべも兼ねた。道路整備の折、いったんは民有地に捨てられたが大田区が現在地に移設した。大田区指定文化財。

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清水窪湧水(清水窪弁財天)

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東京名湧水57選のひとつ。洗足池の水源として保全され、武蔵野台地の尽きる崖断に湧き出る湧水の姿を見せている。1960年ごろまでは大樹が鬱蒼と茂るパワースポットだった。

東京工業大学

6清水窪湧水
7東京工業大学

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東京工業大学

東工大の前身・東京高等専門学校(浅草蔵前)は、関東大震災での壊滅を機に広いキャンパスを探し、蔵前12,000坪と大岡山91,000坪の交換で大正13年(1924)に当地にやって来た。東急電鉄はその後、「文教都市ブランド化戦略」を進めて、慶応大日吉、都立大(現東京都市大)など70校余りを沿線に誘致。大岡山は東急・文教都市の出発地となった。とはいえ当時、現在の北口商店街はなく、仮校舎群がその道路西側に団地のように並ぶ簡素な代物。商店街奥に現存する教職員用官舎2棟に面影が残る。

昭和4年(1929)、同校は国立東京工業大学に昇格。定員150名。飛び飛びだった敷地の換地が進んで現在のような一体化したキャンパスになるが、学内に設備の余分はなく、学生も教授陣も地域の飲食店や本屋・古本屋をよく利用した。大学のインテリジェンスが濃厚に地域にもたらされた空気感は昭和の終わり頃まであり、この土地の文化的風土を育む一端を担ったと言えるだろう。東工大の存在は地域の誇りと期待であることは、今日も変わらない。

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本館

1934年竣工。登録有形文化財。設計は東工大の橘節男・建築学科教授を中心とする、同大学事務局と建築学科教員で構成された「復興部」。当時の最新技術の粋を集めた設計意匠、がっちりとした石作り、美しいアーチに思いを馳せたい。とりわけ正面時計台のデザインは、当時助教授だった谷口吉郎が深く関わったという。

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東京富士見坂

関東富士見100景のひとつ。東急目黒線、東急大井町線の4本のレールを眼下に眺めながら遠景に富士山が見える。朝も夕日に映える富士もすばらしい。ダイアモンド富士が現れる日はちょっと混雑。

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さくらのプロムナード

本館前のさくらのプロムナードは戦後すぐ、本校卒業生が寄付を募って植えたもの。適切な管理のもと、広々と枝を伸ばしたソメイヨシノを背景にインスタ映えするショットが撮れる。この時期、大学は「観桜会」として地域にキャンパスを開放している。

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いちょう並木など

大岡山キャンパス設立ごろに植樹。大岡山キャンパスから石川台キャンパス、緑が丘キャンパスに続く道両側のいちょう並木は大学のシンボル。ほかにもプラトンを意味するプラタナス、ヒマラヤスギやソテツなど西欧風なイメージを醸す樹木が多く植樹され、シンメトリーな設計が好まれた。今日、巨木となったそれら木々や正門正面に立つシンボルツリーのケヤキは、まちにとっても大切な資産になっている。

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100年記念館

創立100年を記念して平成23年(2011)に誕生。当時、大岡山駅舎は地上にあって、大踏切に遮断機が上下するのどかな風景。突如出現した斬新な建物は「異物」に映ったが、今はうすれた。地下は博物館、2階は企画展示、1階の生協は文具類を扱い、地域にも開放されている。

その他

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大岡山駅前ひろば

電線がなく空が大きく広がる。いくつも設えられたベンチ、ロータリーの周囲の4つの花壇は住民の手によるコミュニティガーデン。初夏には駅上に建つ東急病院の緑化壁面からテイカカズラの甘い香りが駅構内まで香る。

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大岡山北口商店街

約160店舗が並ぶ。年間を通して納涼盆踊り大会など多彩なイベントを実施し、3月の大岡山駅前広場さくらまつり、10月の大岡山フェスティバルには近隣沿線からも多くの人が訪れる。地元愛に満ちた庶民的な顔がうり。

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ふれあいロード桜新道

目黒線の上に蓋掛けして大岡山駅~洗足駅の間に新しくできた遊歩道。千束5差路交差点から大岡山駅に向かう方向に運がよければ富士山がくっきり見える。最新映像はGoogleMapで検索できる。

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石川神社

もと石川村の鎮守。江戸時代、小さいながらも1つの村を形成していた石川村は吞川を利する稲作地帯。ほかにも白山社、稲荷社があった。現在は2社とも石川神社に合祀されて、雪谷神社の管理になっている。かつて歯痛の効能で崇敬を集めたという。東工大に隣接しているためか同大への合格祈願者も多い。

8その他
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